「何も見なかったことにしよう」は持続可能?

タイトルの「何も見なかったことにしよう」は、当ブログでよく引用させていただく、横山光輝先生の「三国志」に登場する「劉表」が言った印象的なセリフです。

劉表の優柔不断な様子を1コマに凝縮した秀逸なコマであるため、今日では、このコマがLINEスタンプとして切り取られて、有料で販売されているくらいです(笑)。

白黒をつけずに、問題解決を先送りしたくなる時は、劉表のように「何も見なかった」「問題などは最初から無かったのだ」と、誰しも一度は考えたことがあると思います。

さて、今回は、最終処分場の残存容量という「問題の先送り」の限界が近づきつつあるというお話です。

2022年4月23日付 日本経済新聞 「ごみ大移動、処分場探す387万トン 首都圏は数年で満杯

産業廃棄物が処分場を求めて日本列島を移動している。2019年度に1都6県で出た産廃のうち約387万トンが関東地方を離れ、北海道から沖縄までの各地で処分された。環境省の推計では、山梨県を含む首都圏の処分場は20年代後半にも満杯になる。処分場の新設数が減少の一途をたどる中、産廃とどう向き合うか。日本は切迫した課題に直面している。

「石油が枯渇する」という話と同様に、「最終処分場が枯渇する」も、1990年代からずっと言われ続けている話です。

「枯渇する」と言われてから30年近く経ちましたが、今すぐ最終処分場が一斉に閉鎖されるという状況でもないため、私などは、「難しいとはいえ、新規設置が細々と続いているため、最終処分場が一斉に枯渇することはあるまい」と高をくくっていたところがあります。

逆に、資産である「残存容量」が日々目減りしていく最終処分事業者にとっては、枯渇は他人事ではなく、自社に確実に訪れる未来であるため、自社の資産に限定すれば、確実に訪れる将来として見たくない現実そのものに違いありません。

とはいえ、最終処分場の経営者は、問題の先送りをしがちな官僚的組織とは異なる、現実を直視するリアリストしかいないとも思いますが。

輸送コストなども考慮し、産廃はできる限り発生場所の近郊で処分されるのが一般的だ。だが、首都圏では最終処分場の埋却容量が限界に近づいている。

環境省は19年時点で、首都圏の最終処分場が残り6年半で埋め尽くされると推計した。

思い起こせば、廃棄物の最終処分量を減らすために、「家電リサイクル法」その他の各リサイクル法が次々と制定されてきたわけですが、現在の環境省には、間近に迫る最終処分場の枯渇に対して、腰を上げる様子すらうかがえません(残念)。

北陸地方で最終処分場を建設中の産廃会社(東京)の担当者は「住民側の理解を得るのに10年以上かかった」と明かす。処分場は住民側から誘致する動きがあり、同社が新設に乗り出したが、地元で建設中止を求める署名活動が展開された。

地元の男性(70)は「処分場が必要なのは理解できる。ただ都会のごみを受け入れるのは複雑だ」。同社は土壌や水質に影響がないことなどの説明を重ね、着工にこぎ着けた。

地元住民の方の意見は感情的ではなく、処分場の必要性について理解を示している点で、むしろ理性的と言えます。

現状では、「感情的に反対」に対して、安全性に関する説明を重ねることで、「積極的賛成ではないが、理知的には理解」という段階に来ていただく必要があるために、処分場の設置には非常に長い時間が掛かることがほとんどです。

事業者側が真っ先に「金銭の供与」や「利益還元」の申し出をしたとしても、大部分の人にとっては逆に不誠実な印象を与えてしまうため、回り道に見えたとしても、地道な説明の積み重ねこそが王道です。

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