ゴミとなぜ言い切れない?

報道に限って言えば、疑問形で問題提起をすることは、記者のそのテーマに関する自信の無さを表していると思っています。

今回ご紹介する記事はその典型例、と勝手に位置づけました。

タイトルの「ゴミとなぜ言い切れない?」は、自信欠如ではなく、批判です(笑)。

2019年3月13日付 産経新聞 「しめ縄飾りは「ゴミ」か…処理に困る声

 正月に玄関先などに飾る「しめ縄飾り」。以前は小正月(1月15日)や節分に社寺へ持参すれば「とんど(どんど)焼き」などで焚(た)き上げられて簡単に処理できていたが、都会の社寺では近隣からの苦情などを理由に拒否するケースや、そもそもとんど焼きを行わない社寺もあり、「処理の仕方がわからない」と困惑する声もあがっている。「神聖」なしめ縄飾りは、役目を終えるとゴミになってしまうのだろうか。

しめ縄飾りを神聖と考える人よりも、単なる慣習として、飾っている人の方が圧倒的に多いと思われます。

また、神聖と思っていたとしても、処分、という言い方に抵抗があるのであれば、「撤去」をしたいと思っている以上、不要物として廃棄物処理するしかありません。

ご丁寧に廃棄物処理法の野外焼却の除外規定まで解説していますが、一般市民が自分の家でしめ飾りを燃やすと、野外焼却の現行犯となりますので、絶対に自分で焼却してはいけません。

しめ飾りとは別の話題ですが、

同課では仏壇の処分について市民から質問されることがあるといい、「『魂を抜かなくて大丈夫か』などといった宗教上の心配事に関してはお寺などに尋ねてもらうようお願いしている」と話す。

という部分に苦笑してしまいました。

「市役所に聞いてどうする?」という質問ですが、明治以降になって作り出された宗教観ですので、なかなか根深い問題でもあります。

お墓の管理を子どもや孫に押し付けなくても済むように、自分の代で「墓じまい」をする方が最近増えていますが、自分が生きている間にお墓の問題を決着させるという決意に、個人的には潔さを感じています。

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