酒田港の栄枯盛衰

asahi.com 酒田港 リサイクル貨物の拠点港に

 国土交通省は11日、酒田港をリサイクル貨物部門の日本海側拠点港に選定したと発表した。中国や韓国、ロシアなどとの貿易促進に向けて国が支援するもので、選定に応募していた県は「県全体の発展につながる」と歓迎している。

 日本海側拠点港には19港が決まったが、リサイクル貨物部門に選ばれたのは酒田港だけ。県は、リサイクル貨物部門では秋田県の能代港と共同で応募していたが、能代港は選にもれた。また酒田港単独で応募していた国際海上コンテナ部門では選ばれなかった。

 拠点港に選定されると、岸壁工事や各国間の貿易ルールの調整などハード、ソフトの両面で、国から様々な支援を受けることができる。県は計画でリサイクル貨物の国際取扱量を2010年の15万3千トンから25年までに3倍に増やす目標を掲げている。

酒田市 企業立地ガイド から、「リサイクルコンテナ取扱個数の推移」を抜粋。

平成19年をピークにして、その後リサイクルコンテナ取扱量は減少を続けていたようですが、
リサイクル貨物の取扱量は堅実に伸びていた模様。

立地されているリサイクル施設としては、
「鉄くず」「廃プラスチック」「木くず」「自動車」「パソコン」「遊技機」など、
多種多様な施設群があります。

あえて弱点と思える点を指摘すると、
施設の多様性は、まさに「点」という局面での特徴ですが、
地域としての「線」や「面」の強さが感じられないところが残念な点です。
(エコタウンやリサイクルポート事業に共通する弱点でもあります)

山形県域での既存産業と結びついた強さや、リサイクル技術の独自性が高くないからです。

しかしながら、中国・ロシア・韓国との距離の近さや、
リサイクル拠点港に選ばれたことで、ハード面のさらなる充実が望めるため、
今後もまだまだ発展していく可能性があると思います。

ここで酒田港の栄枯盛衰の歴史をたどっておくと

酒田港 Wikipedia より抜粋

1672年に河村瑞賢により西回り航路を開かれ、酒田港は西回り航路の起点となった。最上川の舟運より運ばれた紅花や米、各地の特産物が北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って、大坂、さらには江戸に運ばれた。
「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、「酒田三十六人衆」でもある鐙屋(あぶみや)や本間家は大商人になった。特に本間家は戦前までは日本一の大地主としても知られており、『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に』と呼ばれるほどの財力を誇った。最も権勢を誇った本間光丘は、日枝神社の創建や庄内砂丘に防砂林を作るなど、今日の酒田の基礎を作った。

明治期になっても、日本初の木造灯台である酒田灯台が作られるなど、発展を続けたが、大正初期に羽越本線が開通したことにより、輸送の主力は鉄道に取って代わられた。

戦後、国際港湾に指定され、主にソ連から北洋材を輸入していたが、最上川の河口に位置するために次第に手狭になり、1974年に、大型船舶への対応・酒田港の国際化・企業誘致を目的として、宮海地区の砂浜を埋め立てて酒田北港が開港した。しかし、臨港地区に誘致した企業がわずか5年で撤退するなど、不遇が続いた。

大正以降、港湾としての地位が低下し続けていた酒田港が、ここ数年間で再発展のきっかけをつかんだのかもしれません。

酒田港の栄枯盛衰に深く関わった本間家の存在も興味深いですね。

山形県での本間家の知名度は非常に高いものがあると思いますが、
その他の地域ではそれほど広く知られているわけでもなさそうです。

少なくとも、私は「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」しか知りませんでした。

第3代当主「本間四郎三郎」はかなりの傑物のようですので、小説にしたら面白いと思うのですが、まだ誰も取り組んでいないようです。残念。

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