「無知は罪」だがしかし…

不法投棄事件の背景や状況を掘り下げた珍しい報道がありました。

※当ブログ関連記事
2020年6月19日付 「神戸市の外郭団体による不法投棄

2020年11月27日付 毎日新聞 「六甲山牧場で廃乳7トン不法投棄 元副場長に有罪判決 神戸地裁

 神戸市灘区の市立六甲山牧場の敷地内に、商品化できない牛乳約7トンを不法投棄したとして廃棄物処理法違反の罪に問われた元副場長の男性被告(49)に対し、神戸地裁は27日、懲役1年2月、執行猶予3年(求刑・懲役1年6月)の有罪判決を言い渡した。西森英司裁判官は「六甲山の地下水や河川、瀬戸内海を汚染する恐れがあり、刑事責任は重い」と指摘。執行猶予付きとした理由について「働きぶりを多くの職員が評価し、献身的に働いてきた」などと述べた。

不法投棄に対する罰則は、「5年以下の懲役、もしくは1千万円以下の罰金、またはこれの併科(廃棄物処理法第25条)」ですので、懲役刑の他に罰金刑が科されてもおかしくない状況でした。

 廃棄した牛乳は当初、浄化槽に流していたが、排水が基準値を超え、2015年に市から改善勧告を受けた。浄化槽の保守管理の責任者だった被告は「公社に廃棄乳を産業廃棄物として処理する経費がない」と判断。部下らに土中への廃棄を指示した。

この文章からは色々な状況を想像できます。

一つは、「独善的な責任者が、不法投棄を独断で即決した」という可能性
もう一つは、「頼りにならない場長や神戸市に絶望し、目先の廃棄物をとにかくなくしてしまうために、不法投棄を思いついた」という可能性

いずれの状況だったかは外部の人間にはわかりませんが、おそらくは、「自分が懲役刑の対象になる」ことがわかっていれば、有罪となった副場長は不法投棄を企図しなかったものと思われます。

「自分の生活設計を棒に振ってでも、組織の利益のために不法投棄をやってしまおう」と考える人はいないからです。

それでも、このような古典的不法投棄が起こってしまった理由は何か?

その理由は2つあると思います。

第1に、「不法投棄は懲役刑が予定されている重罪であることを知らなかった」
第2に、「敷地内での不法投棄であっても犯罪であることを知らなかった」

今回の事件は、その危険性を社会に向けて知らしめたという点においては、廃棄物に関わるすべての人間の記憶に止めておくべきものとなりました。

 弁護側は牧場長ら上司は実務に疎く、被告が一人で市との折衝を担っていたとし、「経費削減を方針とする公社との間で板挟みになった」と主張。公社には禁錮刑以上で懲戒解雇になる就業規則があり、被告を慕った職員らから刑の減軽の嘆願書が集まっているとして、罰金刑を求めていた。

 西森裁判官は「上司がお飾り的存在だったのであれば、被告は廃棄乳を適正に処理して六甲山や瀬戸内海の環境を守る、とりでだった」と指摘。

この部分、個人的には「救いがない」と感じました。

「副場長が個人的に組織の産業廃棄物処理の財源について悩む」という状況は、不条理の一言に尽きます。

組織の問題を自分の問題と受け止め、個人的に解決(にはなっていませんが)してしまう状況こそが、日本社会特有の精神的な問題と感じました。

裁判官の指摘も、組織の問題を個人の責任へと転嫁するまことに不条理なものに見えます。

上司がお飾り的存在だったのであれば、被告は廃棄乳を適正に処理して六甲山や瀬戸内海の環境を守る、とりでだった

「個人に組織の問題解決の責任を押し付け、組織は不適正処理の責任を問われない」のであれば、これからもこのような無責任な組織は存続し続けることでしょう。

「お飾りの場長」や「神戸市の監督部局の責任者」を廃棄物処理法で罰することはできないとしても、違法行為の原因を作ったことは事実ですので、少なくとも、組織内部では管理責任を問うことが不可欠であると思います。

※今回のケーススタディ
・組織の問題のつけを負うべきは「誰」あるいは「どこ」なのでしょうか?
・個人的に組織の問題を解決してしまう前に「できること」と「やるべきこと」は何でしょうか?

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